通法山成顕寺縁起
今から凡そ千五百年前、推古天皇の御世に下総の戸張郷に大きな沼がありました。
ここに龍神が潜伏して、毎年収穫の頃に大風を起こしたり、或いは長雨を降らしたりして農耕を害するばかりでなく、住民をも甚だしく損することがありました。
大同年間の頃(平安時代初期、凡そ千二百年前)、真言宗の祖師、弘法大師のお弟子で桂傳阿闍梨がこの地方に弘通されまして、現在の長妻邸宅の地に密教の秘術を以って、この龍神を降伏させました。そこで住民は渇仰の余り一堂を建て、金胎山道場寺と名付け、龍神を風早明神と称して御祭りすることとなりました。
その後、建治年間(鎌倉時代中期、凡そ七百年前)、平賀有國公の邸に日蓮大聖人の直弟子で六老僧のお一人、日朗聖人が弘通せられることがあり、道場寺の僧、桂傳阿闍梨・法傳阿闍梨の二名と法論を戦わせました。日朗聖人がこれに勝利したため、敗れた二名の僧は付近の丘の麓で自害し、憐れんだ里人は塚を建ててこの二名を葬りました。
この頃、近郷には悪疫が流行して居り、之は龍神の邪曲のさせる所だとのことで、日朗聖人にお願いすることになりました。聖人は法華経によって龍神に誓願させ、一切の人々を守護する為に御腹帯や御符を授けるようにされました。これによって不思議にも住民の悩みが忽ち平癒したので、一村挙って日蓮宗に改めました。
そこで日朗聖人が妙法の御本尊をしたためられて、この龍神を妙法諏訪大明神と改称してお祭り致しました。この御本尊は時の大檀越の高市家に与えられたので、その邸宅と土地を寄附して一宇を建てることになりました。それは今の通法山成顕寺であり、高市家は今もなお続いて居ります。
明治維新の際、神仏分離のことがあり、神社と寺院が分けられました。今の諏訪神社は昔の拝殿であり、成顕寺はその奥の院であって、神霊の鎮座する所であります。
このようにして妙法諏訪大明神は千数百年間、住民の渇仰が深く、霊験あらたかなので年々御腹帯や妙苻を受ける者が非常に多くなりました。それ故、病脳の人は勿論、凡ての人々は無垢清浄の大信力を以て祈願するならば、所願成就・福徳円満は疑いのない所であります。(諏訪大明神畧縁起を再編集しました。)
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